東京地方裁判所 昭和24年(ワ)458号 判決
原告 楠ミツ
被告 酒井直江
一、主 文
原告の請求はこれを棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は「被告は原告に対し東京都台東区下車坂町九番地所在木造亞鉛葺二階建六戸一棟のうち、左端の一戸の階下(四坪八合)を明渡すべし。訴訟費用は被告の負担とする」との判決並に仮執行の宣言を求め、請求の原因として、又被告の主張に対して次のとおり述べた。
原告は約二十年前請求の趣旨記載の一戸を現在の家主鳥井正男の先代から賃借し今日にいたつている。
戰爭中原告は右家屋に娘二人を残して信州に疎開したが、娘二人だけを残しておくのは不安であつたので、適当な留守番を探していたところ、たまたま後藤甲次が被告を世話してくれていたので、昭和二十年三月右家屋の階下を被告に轉貸した。初め原告は間代などいらないといつたが、被告の方から月十円ときめて持つてきたのでこれを受取つていた。
終戰後間もなく原告は本件家屋に戻つてきたが、二階は四疊半と三疊半の二間に押入れしかなく、これに一家の荷物全部をおさめ、原告と娘二人、孫三人が住むこととなつたので、生活は堪えがたいほど不自由である。そして原告の娘静枝は美容師であつて、戰爭中も本件家屋の二階で細々と営業を続け一家の生計を立てていたが、二階では到底満足な営業をすることができないので、本件家屋に戻つて以來人を介し、警察署の生活相談係に願い出で、あるいは調停の申立をして被告に階下の明渡しを懇願したが、被告はこれに対して一片の誠意すら示さなかつた。その間原告は百方手をつくして被告のため貸家、貸間、賣家を探し求め賣家については原告がこれを買取つて被告に貸す旨申出たが、被告は現在の家と同じ條件でなければ應じられない、と無理な注文をつけて取合わなかつた。又被告から移轉料五万円という話が出たことがあるが、これには原告が應じきれなかつた。
被告は原告や娘に対してみだらなことをいつたりしたりしたばかりでなく、時には「家のことでぐずぐずいうと薪割りでぶち殺す」などと脅かすので、女世帶の原告方では安心して被告との同居を続けることはできない。
被告には長男、次男があり、それぞれ世帶を持つているから被告はいつでもそのいずれかへ身を寄せることができるのである。
以上の事情は、借家法第一條の二にいわゆる正当の事由ある場合に該当する。原告は昭和二十三年九月二日附書面で被告に対し本件家屋階下の賃貸借解約の申入をし、この書面は同月四日被告に到達したから、同日から六ケ月を経過した昭和二十四年三月四日限り右賃貸借は終了した。よつて被告に対し本件家屋階下の明渡しを求める。原告の娘静枝は台東区下車坂町一番地に三坪の店舗を借受け、昭和二十四年二月二十一日附で営業許可を受けてパーマネント営業を始めたが、この営業所ができたからといつて原告の家族が本件家屋の二階だけで生活のできないことには変りはない。そして右店舗は高い家賃を出して借りているので、被告から階下の明渡しを受ければ、本件家屋で営業したいと考えているのである。
原告が被告を追い出そうとして被告のいうようないやがらせをしたことはない。
以上のように述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は原告の請求を棄却する旨の判決を求め、次のとおり述べた。
原告主張の事実中、原告が原告主張の家屋を鳥井正雄の先代から賃借したこと(現在もなお賃借しているかどうかは知らない)、戰爭中原告が信州に疎開し、被告が昭和二十年三月原告から右家屋を轉借したこと、終戰後間もなく原告が右家屋に戻つてきて二階に住むようになつたこと、被告が昭和二十三年九月四日原告から原告主張の解約申入の書面を受取つたことは認めるがその他の事実は爭う。
被告は昭和二十年三月九日の空襲で浅草千束町の住居を燒かれ、一時家族を栃木縣に避難させたが、そこでは生活していけないので、知人の後藤甲次(本件家屋の筋向いに住んでいた)を頼つて上京した。当時本件家屋には原告の荷物が残つていたが、原告方は全家族が轉出の手続をすまして疎開していたので被告は後藤の世話で本件家屋全部(原告のいうように階下の部分だけではない)を賃料一カ月十五円(但し原告が残していつた荷物を全部疎開先に運び終るまでは一カ月十円)毎月末拂いの約束で期間を定めず轉借した。そして昭和二十年三月二十日頃原告の荷物を二階に片附けて本件家屋に入つた。
被告が本件家屋に入つて約二十日を過ぎた頃、原告の三女栄子が、田舎のきたないところには住めないといつて、突然本件家屋に帰つてきて二階に住むようになり、更に一カ月位経つて、原告の長女静枝がパーマネントの道具を背負つて疎開先から帰つてきた。静枝はその後東京と疎開先の間をいつたりきたりしていた。そして終戰後原告は被告に何の断りもなく本件家屋に帰つてきて二階に住むようになつた。
原告が本件家屋に帰つてからは、被告を追い出そうとして、二階から水をこぼす、ある時はアムモニヤをこぼしたこともある、便所の使用を妨げる、水道を使わせない、二階でダンスをする、というようにあらゆるいやがらせをしている。
被告が原告や娘に対してみだらなことをいつたり、したりしたことはない。乱暴なことをいつたこともない。
又原告が被告のため適当な移轉先を世話したというようなこともない。一例を挙げると、家があるから見に行け、ということであつたので、これを見に行つたところ、芥捨場のところにある家屋とはいえないようなものであつた(この小屋は二、三日後に取毀された)。すべてがこういつた具合である。
原告の長女静枝は、本件家屋に近く、台東区下車坂町一番地にパーマネントの営業所をもつている。静枝はパーマネント営業のため本件家屋を使用する必要はなく、又静枝と栄子とは交代でこの営業所に泊りにいつている。
被告は表具師で、本件家屋の階下(二疊と四疊)を住居兼仕事場とし、これに被告夫婦と娘とが住んでいる。被告には他に移轉先がなく、又本件家屋を離れると表具師の商賣に差支えを生じるのである。原告の解約申入は正当の事由があるとはいえない。
以上のように述べた。<立証省略>
三、理 由
原告が東京都台東区下車坂町九番地所在木造亞鉛葺二階建六戸一棟のうち、左端の一戸を、鳥井正男の先代から賃借したこと(証人楠静枝の証言と眞正に成立したものと認められる甲第二乃至第五号証によれば、原告は現在も右家屋を賃借していることを認めることができる)、戰爭中原告が信州に疎開し、被告が昭和二十年三月原告から右家屋を轉借したことは家屋全部を轉借したかどうかの点を除き、当事者間に爭いがない。
成立に爭いのない乙第一号証の一、二証人後藤甲次、楠静枝の各証言、被告本人訊問の結果を合せ考えると、原被告間に本件家屋の賃借が成立するにいたつた経過は次のとおりである。原告は娘静枝、栄子、静枝の子供二人と共に本件家屋に住んでいたが、戰爭中本件家屋の向いに住んでいた後藤甲次が長野縣岡谷市に疎開することになつたので、かねて同人に岡谷市で原告の疎開先を見つけてもらいたい、又疎開するについては荷物を残していくから、留守番がてら本件家屋に入つてくれる人を世話してもらいたい、と頼んでいた。そして後藤の世話で岡谷市に疎開先が見つかつたので、原告は昭和十九年十一月静枝と静枝の子供二人と共に同市に疎開したが、静枝は疎開後も時折上京して本件家屋で髪結いをしていた。当時栄子は電気試驗所に勤めていたので、同人だけは疎開しなかつたが、ふだんは本件家屋で寝泊りしていなかつた。一方被告は昭和二十年三月九日浅草で罹災し、知人の後藤甲次方に厄介になつて家を探していた。そこで後藤は原被告双方に互の事情を取次いで本件家屋の貸借を斡旋した結果、前記の如く原告は本件家屋を被告に貸すことになつたが、本件家屋の二階には箪笥その他原告の荷物が残してあり、又静枝、栄子は本件家屋に帰つてくることがあつたので、原告としては階下だけを被告に貸すつもりであり被告も亦階下だけを貸してもらえばいいといつていた。そして家賃は一カ月十円ということで貸借の話がきまつた。以上のように認められる。証人楠静枝、酒井正方の各証言及び被告本人訊問の結果中以上の認定に反する部分は採用しない。
右実実によれば、原告は被告に対して本件家屋の階下を家賃一カ月十円の約束で期間を定めず轉貸したと認めるのが相当である。
終戰後間もなく原告が疎開先から本件家屋に戻つてきて二階に住むようになつたこと、原告が昭和二十三年九月二日附書面で被告に対して本件家屋階下の轉貸借解約の申入をし、この書面が、同月四日被告に到達したことは当事者間に爭いがない。
そこで原告が右解約の申入をするについて正当の事由があるかどうかについて考える。
証人楠静枝、楠栄子の各証言、原告本人訊問の結果及び檢証の結果を合せ考えると、本件家屋は階下が四疊、二疊の二間に勝手と便所、二階が四疊半、三疊半の二間という間取りであること、原告が本件家屋に戻つてきた当時には、原告、静枝、栄子、静枝の子供二人の五人であつたが、その後静枝には内縁の夫との間に子供が生れ、都合六人暮しとなつたこと、原告の使つている二階は、四疊半の間の約三分の一が箪笥、ミシン、行李等の置場にとられ、三疊半の間も約半分が箪笥、本箱でふさがり、その他の部分にも寝具、座蒲団が積み重ねておいてあるので(二階には三尺の押入れが二つあるが、道具類、米びつ、木炭等が入れてある)二階の二間だけでは手狹で、原告の家族六人は不自由な生活をしていること、静枝は髪結いをして一家の生計を立てていたが、被告が階下を使つているので、二階には裏口から出入りしなければならず、そのため思うように営業ができなかつたこと、そこで原告は被告に階下の明渡しを求めたが、交渉が長引いたので、静枝は台東区下車坂町一番地に権利金三万円を出して間口十尺、奥行十九尺の店舗を賃借し、ここで美容院を開業したこと、この店舗内には二疊の部屋があり静枝の雇人一人が寝泊りしているが、栄子も時々泊りにいくことを認めることができる。
これ等の事実によれば、下車坂町一番地に店舗を賃借したことによつて、静枝の営業所は一應確保されたものということができるが、栄子が右店舗に泊りにいくことを考慮に入れても、原告等の生活は本件家屋の二階だけではなお不自由であるものと認められる。そして前認定の原告が留守を頼む趣旨から被告を本件家屋に入れたという事情だけから考えると、原告が疎開前の生活状態に復したいとねがうのは、原告としては一應もつともなことであるといえるであろう。しかしながら同時に又、原告は疎開するについて、とにかく本件家屋の階下を被告に賃貸していつたのであるから、被告に対してその明渡しを求めることが正当とされるかどうかは、終戰後なお緩和されていない住宅難の現状にかんがみ被告の移轉先の有無を考慮して決しなければならぬ。なぜなら二階だけでは不自由であるにせよ、原告の家族がここで全く生活ができいものとは認められないのであつて、原告等のこの不自由を解消するため、移轉先のあてのない被告に階下の明渡しを強いることは、これによつて受ける原告の利益に比して、被告の被る損害は甚しく権衡を失したものとなり、到底許されないところであると考えられるからである。
ところで証人後藤甲次、酒井正方の各証言、被告本人訊問の結果、檢証の結果に本件口頭弁論の全趣旨を斟酌して考えると被告は本件家屋の階下に娘二人と共に住み(妻は長男正方の家に手傳いにいつている)ここを仕事場として表具師をしているが、四疊の間にはその大部分に表具用材料、仕事台、炊事道具がおいてあり、二疊の間にも表具用の道具がおいてあつて、被告の家族の生活も不自由であり(被告は本件家屋の勝手を使用せず、戸外の井戸を使用して炊事をしている)又本件家屋の階下では表具師として十分な仕事をすることができないので、(被告は本件家屋に尚江堂表具店仮営業所という看板を掲げている)被告としても本件家屋の階下にいつまでもとどまるつもりはなく、適当な移轉先があれば引移りたいと考えていることを認めることができる。
もつとも証人酒井正方の証言と被告本人訊問の結果によれば被告の長男正方は墨田区東町に六疊と四疊半二間の家屋を所有していることを認めることができるが、右各証拠によれば正方の家族は夫婦と子供一人であり、これに被告夫婦と娘二人が同居することになれば、この家屋も手狹となるばかりでなく、被告は得意先から離れることになつて、商賣に差支えることが認められるから、被告が正方の家に引移らないことは相当の理由があるものと考えられる。
又証人楠静枝の証言によれば、静枝は千住方面や台東区内に被告の移轉先を世話しようとしたが、いずれも被告に断られたことを認めることができるが、台東区内の家は一つは三疊一部屋と土間だけの家で貸借の條件はまだきまつていなかつたこと、一つは静枝の客から話のあつたアパートの六疊の部屋であつたこと(貸借の條件は明かでない)、一つは玄関と六疊一部屋の番小屋様の家で、この家はその後間もなく取毀されてしまつたこと(千住方面の家は入れそうだというだけでその他の点は明かでない)も亦同証人の証言によつて認めることができから、被告が静枝の申出を断つたことは一概に無理とはいえないと考える。
なお証人楠静枝は、坂本警察署生活相談係の斡旋によつて、被告は六カ月後に移轉料として金五千円の交付を受け本件家屋の階下を明渡すという話がまとまり、その結果を代書人に頼んで書面(甲第六号証)にしてもらつたが、被告はこれに捺印することを拒んだ、と供述しているが、甲第六号証の記載を全体としてみるときは、家屋明渡しの約束としては甚だ不合理なものであつて、同証人のいうような話合いが実際に成立したものとは到底考えられない。
以上諸般の事実から考えると、被告は適当な移轉先があればこれに引移る意思をもつているのであるが、まだその移轉先が見つかつていないものと認められる。原告等の不自由は十分察せられるが、原告としては今しばらくこの不自由を忍んで、被告の移轉先が見つかるのを待つべきであつて、直ちに被告に本件家屋階下の明渡しを求めることは妥当でないと考えられる。
なお、証人楠静枝、楠栄子の各証言と原告本人訊問の結果によれば、被告は戰爭当時、静枝栄子等に対して愼みを欠いたからかい方をしたこと、明渡しの話が出た際に原告静枝等に対して乱暴なことをいつたことを認めることができるが(これに反する被告本人の供述は採用しない。)いずれも一時の出來事であつて、同居に堪えない程度までに事態が悪化しているものとは認められない。
要するに、原告のした解約の申入は正当の事由を欠くものであつて、これによつては本件家屋階下の賃貸借終了の効果を生じないものといわねばならぬ。
被告に対し本件家屋階下の明渡しを求める原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十五條第八十九條を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 守屋美孝)